(抜粋) 学士卒業論文 『清浄道論』における定の考察 ―入定から初禅までー
Ⅴ.おわりに
瞑想修行は二重構造になっているように考えられる。表側は、瞑想実践により相(瞑想対象)に集中することによってその結果、五蓋を機能停止にする。裏側は、戒や頭陀支の実践によって五蓋の働きを弱めて、瞑想へ導く働きをなし、瞑想を成功に導くのである。
この五蓋は、現代心理学の言うところの潜在意識に相当する。五蓋を、顕在意識が意思で抑え込もうとしても、顕在意識を根底でコントロールしているものが五蓋であるため、人格の変革とも言える瞑想の成就を邪魔することになる。①「何故集中することによって三昧が出現するのか」と②「何故初禅に到達するのは難しいのか」の二つの問いを掲げて本論文を進めてきた。前述のようにこれらは、五蓋の影響が大きいことが知られる。過去世に禅定体験を積んだ人は、そのことによって今世では最初から五蓋が弱くなっているので、少し瞑想修行しただけで五蓋の機能が停止しやすく禅定を得ることができるというわけである。五蓋とは、(貪欲・瞋恚・惛沈睡眠・掉挙悪作・疑)であるが、これらは人間の悪い面の全てを含んでいる。人間が動物的な存在であることによって現れてくる悪の面である。ここで云う五蓋の機能停止とは、動物的な面を持っている人間から聖性を持つ存在に転身することであるといえる。
さて、今回の論文で達成できたと考えられることは、南方上座部仏教の瞑想用語を理解できたことである。最初は、パーリ語から翻訳された仏教用語を解説している書が充実していないために、読み進めるのに大変苦労した。例えば、等持・所縁・心一境性・勝解・似相・取相・近行定・有分・軽安等の用語を仏教辞典で引いてみても、『清浄道論』の意味は解らないだろう。今回色々の資料を駆使しながら、『南伝大蔵経』の『清浄道論』を繰り返し読んだことによって、それなりに上座部仏教の用語に馴染んだものと思われる。
出来なかったことといえば、「止観」をテーマとして考察しようとしたが、『清浄道論』自体が難物のうえ大部で、その上使用したテキストが、『南伝大蔵経』である。これは昭和初期に出版され旧仮名使いのために、読み進めるのに難渋した。そのために、「止」瞑想で留めることにした。自分の能力もであるが、論文のページ数の関係でも止観両方を考察するのには無理があったと考える。次に『清浄道論』は、戒・定・慧と三学の段階を踏んで解脱に到達することを目標としている。そのために、今回の「止」瞑想だけでは、完結したことにはならない。機会を待って「観」瞑想いわゆるヴィパッサナー瞑想を研究したいと考えている。今後、初期仏教から大乗仏教を経て日本仏教までを比較検討するテーマとして、「止観」を使うのに今回が端緒になればと望むものである。(了)