(抜粋) 博士論文演習Ⅰ 『スッタニパータ』における死の概念
8.おわりに
本論文において、死に関する偈文を収集してきたが、それらを比較対照し論考する中で、以下の5つの論旨が浮き彫りになってきた。
⑴論旨
①maraṇaとその他の死の用語の位置付け
死の超越の構造(下文は本文では図形である)
此岸・輪廻
目に見える生存の終わり
肉体の死 六道輪廻cuta, cuti, kālakata, macca, maccu, mata, maraṇa, miyyati,
➡➡
修行者の階梯
彼岸・解脱・アラハト
accuta・amata・parinibbuta
初期経典においては、修行者の階梯は現れないが、此岸と彼岸の2極からその途上が予感される。
② nibb-とparinibb-の取り扱いについて
肉体の死を取り扱っている他の用語とは違って、この二つの用語は趣を異にしている。先行研究iに膨大な積み重ねがあり、Snだけでは軽挙に判断できない。大意は、覚りの状態を表しており、修行者の最終到達境地である。そのため、他の死の用語と同列に論じるのは問題がある。今後、他の『ダンマパダ』等初期経典をあたることによって、用例を増やす中で論考する必要がある。
③『スッタニパータ』から見える死の役割
真理諦においては、解脱した修行者にとって、死は克服されていて問題はないはずである。
仏教はこの世における解脱を目的とするものだから、人生の終わりである死を重要視する必要はないであろう。しかし、本論文において収集した偈文によると、死に多大な関心が寄せられている。それらの偈文を比較対照してみると、収斂される意図が見えてくる。人々が、欲望まみれの現世の楽しみに目を奪われて、困難な彼岸への道に踏み出そうとしないから、死を意識させることによって無常をさとり、執著を離れる助けにしようとしているように考えられる。その構造を図示すると、
この修行に赴かずに生死輪廻を繰り返すのは、無明のためであると述べられる。
死を意識させる目的(ここも実際は図形である)
現世における執著を捨て修行に赴かせる
生死の超越=覚りの境地
修行(出家)
欲望に打ち勝つ
煩悩を制する
(瞑想の五蓋)
④病死が存在していない理由
四苦の内、生死と老死は収集できたが、病死は出現していない。なぜなのか。その理由を推理してみると、生死と老死は、必然的なもので、生物はこれを避けることができない。そこに苦の深淵がある。それに比較して、病死は必然的なものではない。生活習慣によっては罹患しないこともある。また病気になっても治療の効果によって治ることもある。必ずしも病死するわけではない。そのために病死ではインパクトが弱いのである。そのように推理すると、死を執著から離れさせるための装置として利用する目的にそぐわないから、病死は外されていると推理できるのである。
⑤死を乗り超える瞑想
本論文において提示した偈文に、欲望を捨てることや煩悩を制することの必要性が随所に述べられている。例えば467偈の「欲望を捨てて、欲にうち勝って生死の果てを知る」484偈の「(煩悩)を制し、生死を究め」等に示されている。しかし、その方法については書かれていない。修行者に向け口伝された『スッタニパータ』の修行実践法は、師から弟子に直接伝えられるものであったであろう。そのため、そこにわざわざ表す必要はなかったのではないだろうか。後代、『清浄道論』に、入定してから初禅に到達する過程が記述されているが、ここに初禅に到達することを妨害する五蓋があることが示されている。五蓋とは、貪欲・瞋恚・惛沈睡眠・掉挙悪作・疑の五つの煩悩のことである。瞑想には、集中(concentration)が必要であるが、この集中を障害するものが五蓋である。しかし、瞑想中、繰り返し湧き上がってくる妄想に関心を持たず静観していると、段々と心が静まって集中状態になる。この状態を、五蓋が抑制された状態という。前述の1119偈は、この状態のことを言っているのだと考えられる。なぜ、集中すると五蓋が抑制されるのかというと、その理由は、ānāpānasati(呼吸に意識を集中させる瞑想法)を例にとると、息に意識が集中すると、他に意識が向かわないので、五蓋が意識に浮かび上がってこなくなるためである。人間の意識は、一時に一事しか処理できないようになっている。五蓋が休止状態になると獣性が抑圧され、今まで五蓋によって出現を邪魔されていた清浄な人間性が現れてくる。その集中状態(ānāpānasati)から観察状態(vipassanā)へ移行して、覚りの階梯を登っていくのである。このように、貪欲等の煩悩を制する修行実践法は、瞑想であると考えられる。故に、死を乗り超えるのも瞑想が大きく寄与するのではないかと考えたいが、用例一つでは結論を急ぎ過ぎている。他の初期経典にも用例を求めるべきである。
⑵今後の課題
maraṇaを中心としたので、その他の死の用語の分析が弱いように感じられる。
補強する方法として、
①maraṇaよりmaccuの方が最古層・古層においては、死の用語として主流である。偈文を並べてみて比較対照することによって分析度を深める。
②maccuが2音節、maraṇaが3音節、どちらもmṛからの派生であって語源は同じである。使われ方が違うのは、韻律の関係なのだろうか。検証する必要がある。
③jātimaraṇaとjarāmaccuの偈文を並べてみて、使われ方の違いを分析する。
④語源から、使われている状況から、なぜ死を意味しているのかを分析する。
⑶今後の方向性
本論文において、『スッタニパータ』の死の概念を考察した。最終目的とするところは、初期経典から
『清浄道論』に至る瞑想と死の関係を明確にすることである。今後の対象資料としては、
①後代の『清浄道論』『解脱道論』によって、死念・死想を考察する。
②『スッタニパータ』と同じ手法で、最古層・古層の経典である小部経典(ダンマパダ、長老偈、長老尼偈)、相応部の一部まで資料の範囲を広げる。
③最古層・古層の経典からの変遷を見るために、死念・死想が出てくる長部、増支部、相応部を考察する。(了)
i 先行研究の一部ではあるが、参考としたのは、
①『印度学仏教学研究』第35巻第2号「原始仏教における涅槃(nibbāna)の語義に 就いて」服部弘瑞、1987年、522~524頁。
②『インド仏教2』岩波講座・東洋思想第9巻、「涅槃」藤田宏達、岩波書店、1988年9月30日第1刷発行、264~286頁。
③『印度学仏教学研究』第37巻第1号「原始仏教における涅槃―nibbānaとparinibbāna―」藤田宏達、1988年12月、1~12頁。
④『原始仏教の思想Ⅰ』中村元選集〔決定版〕第15巻、中村元、春秋社、1993年8月30日第1刷発行、809~965頁
⑤『パーリ学仏教文化学』第10巻「原始仏教に於ける無明(avijjā)の語義に就いて」服部弘瑞、1997年5月20日発行、105~111頁。
⑥『印度学仏教学研究』第46巻第1号「原始仏教に於ける八正道と涅槃の問題」服部弘瑞、1997年12月、81~83頁。
⑦『印度学仏教学研究』第56巻第2号「原始仏教における‘saṅkhārā’(行・諸行)と涅槃の問題」服部弘瑞、2008年3月,195~200頁。
⑧Osaka University Knowledge Archive 「初期経典における涅槃の基礎的研究―『スッタニパータ』を基礎資料として―」富田真理子、(博士論文内容の要旨)2018年3月22日。以上