(抜粋) 博士論文演習Ⅲ 初期経典(最古層・古層)におけるmaccuとmaraṇaの研究
⑹まとめ
最古層から古層経典において、死に対する特徴的な変遷は見られなかった。maccurājan(死王)は、最古層から古層まで出現するが、これは死を支配する者があるとする当時の考えが反映されたもので、意味の変遷は見られなかった。同じくmaccudheyya(死魔の領域)も、彼の守備範囲を指し、これも意味の変遷は同じく見られなかった。maraṇaは、1例のみ最古層に出てくるが、他の59例全てが、古層での出現である。古層での使用が圧倒的に多い用語である。それに比較してmaccuは、最古層に9例出現する。maccuの方がmaraṇaより古くから使用されていたことがわかる。
全体を俯瞰しての構造は、maccurājan(死王)の支配によって普通の人は、maccudheyya(死の領域)にとどまってjātimaraṇasaṃsāra(生死輪廻)を繰り返す運命にある。なぜ彼岸に到達できないのか。その理由は、生の欲望に執着しているためであると記述されている。彼岸に到達するためには、maccuhayin(死を捨てる)もしくはjatimaraṇappahānāya(生死を捨てる)ことが必要であると説かれている。さて、生死輪廻を捨てて彼岸に到達するとはどういう事であろうか。それは来世に再生しないということである。つまり生まれ替わり死に替りするような、人としての欲望の世界を卒業することになる。ゆえに、彼岸に向けて修行に励む比丘にとって死は恐怖ではないと言えよう。
maccurājan(死王)のmaccudheyya(死魔の領域)をjātimaraṇa(生死)を捨てることによって超えて、彼岸に到達し、死を克服する。初期経典において、死に対する恐怖や悲惨さが人間の避けることのできない運命として記述されるのは、導入部ではあるが核心ではない。それらをそれほど重要視しているようには見受けられない。死の克服は、それほど困難なことではないとする初期仏教の思いが感じられる。死は捨てるべきものであって、その先にある彼岸に到達すべく修行するものである。
⑺今後について
『仏教学研究指導演習Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』によって資料は集まった。しかし、分析が覚束ない。この材料を使ってもっと論理的に分析できるのではないかと考えるが、如何せん、やっとスタートラインに立てた心境である。まだ自分自身満足できていない。もう少し時間を得て、じっくり取り組みたいと思う。どのような景色が見えるのか、はたまた徒労に終わるのかは、やってみないとわからない。既に齢73歳になる。死ぬのが先になるか、学成るか、未だ未だワクワクは続く。映画のエンディングのNext
continueの心境である。 さて、死をテーマに選択したのは、『Visuddhimagga, ヴィスッディ・マッガ(清浄道論)』の中で瞑想の40業処にmaraṇa-sati(死念)があることに興味を持ったことが発端であった。当初は、死と念の両方を追いかけたが、教授から何度も方向を修正された。また、生涯教育的な個人の興味としての研究姿勢も度々指摘された。しかし、研究を長い期間持続させるためには、個人的な興味は大事であると思う。個人的興味と博士レベルとの折り合いをつけることが、何度もの面接授業であった。最早、佛大にお世話になって11年になる。『仏教学研究指導演習Ⅲ』を書き終えて、少しは研究者として洗練されたであろうか。まだまだ覚束ない感じではあるが・・・。